ナニヨム・ザ・ワールド

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唯一無二の存在感で魅惑するマレ地区のバロック建築ーーサン=ポール・サン=ルイ教会

 

パリ4区・マレ地区。

歴史的な建物や石畳の道が続く、時代を超えた美しさを持つ街。その中でも、ひときわ歴史を感じさせるたたずまいと、そしてひときわ大きく圧倒的な存在感を放つ建築があります。

 

高く細身のファサードには、コリント式の柱や彫像、繊細な装飾が隙間なく施され、中央には美しい円形時計。まるで宮殿のような風格を漂わせています。

 

これがサン=ポール・サン=ルイ教会(Église Saint-Paul-Saint-Louis)。

 

パリで本格的なイタリア・バロック様式を採用した最初期の建築であり、現在パリに現存する唯一のバロック教会です。

 

見事なファサードを持つ教会ですが、その真の面白さは横へ回り込んだときに見えてきます。側面から眺めると、意外なほど宮殿のような構造物が「薄い」のです。

そして裏側へ回ると、今度は正面からはまったく見えなかった大きなドームが姿を現します。

建物としての主役はこのドームであり、正面ファサードは、いわば巨大なスクリーン。見事に並ぶローマ式の柱の多くは建物を支える柱ではなく、壁から半分だけ突き出した飾り柱(付柱)として、建物に奥行きと壮麗さを与えています。

 

大胆な言い方をすれば、このファサードは「かきわり」です。劇場の舞台装置のように、人々を魅了し、感動を与えるために造られた意匠なのです。

 

見事なファサードに引き寄せられるように中へ入ると、いよいよドームが空間の中心として姿を現します。こちらも精巧な装飾や天井画が広がり、天窓から降り注ぐ柔らかな自然光が内部を包み込みます。

ゴシック教会の高い尖塔や細長い窓とは対照的に、丸みを帯びたアーチと大きなステンドグラスがふんだんに光を取り込み、白い壁がその光を反射します。薄暗く神秘的なゴシックとは異なり、空間全体には明るさと開放感、そして華やかさが満ちています。

 

サン=ポール・サン=ルイ教会は1627年から1641年にかけて、ルイ13世の命によりイエズス会の建築家たちによって築造されました。その手本となったのが、ローマのイエズス会本部教会「ジェズ教会」です。

 

16世紀以降、ヨーロッパでは宗教改革によってプロテスタントが勢力を拡大しました。

 

これに対抗したカトリック教会は、建築や絵画、彫刻を通して神の栄光や教会の権威を視覚的に伝えようとします。その中心を担ったのがイエズス会でした。

 

ゴシック建築が主流だったパリにおいて、サン=ポール・サン=ルイ教会の壮麗なファサードや内部装飾は、新しい時代を象徴する挑戦だったのです。

 

圧倒的な存在感を持つこの教会は、革命後の世俗化が進む時代にも、新たな歴史を重ねていきます。

 

まず目を引くのが、ファサード正面で輝く美しい時計です。

 

これはもともと隣接していた旧サン=ポール教会に設置されていましたが、フランス革命後の1802年に教会が解体された際、この場所へ移されました。

 

教会名が「サン=ポール・サン=ルイ」と二人の聖人の名を冠しているのも、二つの教区が統合されたためです。教会は名称だけでなく、その歴史や遺産までも取り込みながら現在の姿になりました。

 

革命後の19世紀、この教会はさらに芸術家たちによって彩られます。

『民衆を導く自由の女神』で知られるロマン主義の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワが描いた《オリーブ園のキリスト》(1827年)もその一つです。

 

革命によって多くの美術品や宗教施設が失われる中、新たな教会美術の制作が若い芸術家たちに託され、その白羽の矢が立ったのが26歳のドラクロワでした。

 

つまり、この作品は後から持ち込まれたものではなく、もともとこの教会の空間のために制作された絵画です。若き日の「ロマン主義の巨匠」のドラマチックな絵はこの荘厳かつ華やかな空間にマッチしています。

 

ドラクロワ自身もこの作品を大変気に入っており、パリ万国博覧会の際には、自らの強い希望で一時的に教会から取り外し、会場で展示したという逸話も残っています。

 

文豪ヴィクトル・ユゴーとの縁もあります。代表作『レ・ミゼラブル』にもこの教会は登場し、娘レオポルディーヌの結婚式もここで執り行われました。さらにユゴーは、貝殻をかたどった聖水盤を教会へ寄贈しています。

 

バロック建築の粋を集めたファサードと内部空間は、多くの人々を魅了するだけでなく、時代ごとの芸術家たちもひきつけながら歴史を刻んできました。

 

そして約400年の時を経た今もなお、時代を超えて愛されるマレの街並みの中で、唯一無二の存在感と”誘因力”を放っているのです。

歴史の層が密集する場の力――パリ「サン・テティエンヌ・デュ・モン教会」を訪ねる

ウディ・アレン監督の映画『Midnight in Paris』で、主人公が過去の時代へとタイムスリップする車の迎えを待つ、あの印象的な階段を持つ教会。

 

その舞台となったのは、パリ5区・カルチェ・ラタンの坂道を登りきった場所、パンテオンと背中合わせに佇む「サン・テティエンヌ・デュ・モン教会(Église Saint-Étienne-du-Mont)」だ。

中世とルネサンスが同居するファサード

パリの守護聖人・聖ジュヌヴィエーヴを祀るこの教会は、少し不思議な外観をしている。尖塔や鋭いアーチには中世ゴシックの空気が色濃く残る一方で、ファサード(正面)にはルネサンス建築の古典的で優雅な装飾が混ざり込んでいるのだ。

 

15世紀末から17世紀初頭にかけて、およそ100年以上を費やして建設されたという事実。この長い建設期間こそが、異なる時代の様式を一つの建物に内包させ、この建築最大の個性を生み出すこととなった。

奇跡的に残された、魅惑の「ジュベ」

そしてこの教会の本当の魔力は、さらに魅惑的な内部空間に隠されている。

 

聖堂へ足を踏み入れると、視線は自然と中央の白い構造物へと引き寄せられる。教会内部を大胆に横断するように架けられた石造りの橋――これこそが「ジュベ(Jubé:聖歌隊席仕切り)」と呼ばれるものだ。

 

ジュベとは聖職者が儀式を行う神聖な「内陣」と、一般信者が祈る「身廊」とを隔てるための仕切り。中世の教会においてはごく一般的に見られた構造である。

 

当時のキリスト教世界では、「聖なる領域」と「俗世」を明確に分けることが重要視されていた。聖職者たちはこの上部の通路に立ち、福音書を朗読し、民衆へ説教を行ったという。祭壇をあえて完全には見せないことで、宗教的な神秘性を高める役割も担っていたと考えられている。

パリで唯一、失われた中世の記憶

現在、ヨーロッパの主要な教会でこのジュベを見る機会はほとんどない。

 

16世紀以降の反宗教改革の時代になると、「聖職者と信者を隔てる壁をなくし、祭壇をより開かれたものにしよう」という思想が広まり、多くのジュベが撤去された。さらに追い打ちをかけるように、フランス革命では「旧体制(アンシャン・レジーム)の象徴」とみなされ、大半が破壊されてしまったのだ。

 

パリの象徴であるノートルダム大聖堂(Notre-Dame de Paris)も例外ではなく、かつて存在した壮麗なジュベは今はもう失われている。

 

現在、パリで当時の姿のままジュベを残している教会は、このサン・テティエンヌ・デュ・モン教会だけだ。ここは、ヨーロッパ宗教建築史の中でほとんど消滅してしまった空間構造を、いまに伝える極めて貴重な場所なのである。

石で織られた、軽やかなリボン

このジュベは、1530〜1540年代にかけて制作された。

 

白い石に繊細な透かし彫りが施された中央のアーチは、まるで宙に浮かぶ回廊のように聖堂を横切っている。そして左右の柱には、吸い込まれるような螺旋階段が巻き付く。

 

リボンのような曲線は、重い石材でできているはずなのにどこまでも軽やかで、まるで布や植物をそのまま彫刻したかのようだ。

 

異なる時代の要素がぎゅっと押し込められたこの教会で、奇跡的に生き残ったジュベ。 歴史の層が美しく密集するこの場に立つと、実際にタイムスリップするわけではないけれど、時空のゆがみ、そして時代の堆積の中に身体が引き込まれるような、心地よいめまいを覚えるのだ。

 

パリの地下に眠る「悪趣味」――カタコンブの“魅せる死”が私たちに示すもの

美しい石造建築、整然とした大通り、ブランドショップやおしゃれなカフェ。


パリは、世界でもっとも「洗練」という言葉が似合う都市のひとつです。

 

しかし、13区モンパルナス近くの公園地下およそ20メートルには、まったく別の世界が広がっています。

 

らせん階段を下りると、静寂に包まれた地下はひんやりと涼しい。そして視界に飛び込んでくるのは人間の骨、骨、そして骨。

 

ここは地下墓地「カタコンブ・ド・パリ」です。

装飾のような規則性をもって並べられた頭蓋骨。建材のように積まれた大腿骨。その不気味さに圧倒されると同時に、率直な戸惑いも覚えます。

 

なぜこんな場所をつくったのだろう。ここは単なる埋葬の場ではなく、あきらかに「展示空間」としてデザインされています。

 

納骨堂であれば、もっと別の方法もあったはず。人が歩いて見学できる形にする必要もありません。

 

近くには、著名人の墓が並ぶモンパルナス墓地もありますが、それとはまったく異質です。

 

率直に言えば、かなり悪趣味にも映ります。

始まりは「美しい都」を襲った腐臭

カタコンブ誕生の背景には、きわめて現実的な事情がありました。

 

それは18世紀のパリを悩ませた深刻な衛生問題。

 

当時、パリ中心部にあった「レ・イノサン墓地」は、千年以上にわたり庶民の遺体を受け入れ続けていました。

 

しかし人口増加に対して墓地の容量は限界を超え、土葬された遺体は地中で飽和状態となります。

 

地面は盛り上がり、周囲には強烈な悪臭が漂っていたといいます。

 

1780年には、ついに墓地の壁が崩壊。隣接する地下室へ大量の遺体が流れ込むおぞましい事故まで発生しました。

 

耐えがたい腐臭と疫病への恐怖に直面した市当局は、墓地の閉鎖を決定。あらなた埋葬場所を探す必要が生じます。

 

白羽の矢が立ったのが、ローマ時代から採石場として使われ、すでに廃坑となっていた地下空洞でした。この場所では石灰岩が切り出され、建築に利用されていました。

 

真夜中に続いた「骨の移送」

1786年以降、夜になると黒い布で覆われた馬車が、静かにパリの街を進みました。運ばれていたのは、いうまでもなく大量の人骨です。

 

司祭の祈りとともに、墓地から掘り出された膨大な遺骨が地下採石場へ移送されていく骨の数は、最終的に約600万人分とも言われています。

 

地下には積み上げられた「骨の山」。ただし、この時点では現在のような姿ではありません。

 

現在のカタコンブの異様な景観を作り出すにはある人物の存在があります。

 

「死を展示する」という発想

1810年、この地下空間の改修を任された鉱山検査官ルイ=エティエンヌ・エリカール・ド・テュリーは、ある大胆な発想を抱きます。

 

この場所を、単なる納骨場ではなく、「死を瞑想するための記念碑」に変えようとしたのです。

 

彼は骨を整然と積み直し、頭蓋骨を装飾的に配置し、通路には死をテーマにした詩や警句を刻ませました。

 

貧民も、富裕層も、聖職者も、すべて同じ白骨となって積み上げられている。

 

「どれほど美しさや財産を誇っても、死ねば皆同じ」すがすがしいほどの死の平等。

 

人は必ず死ぬ。だからこそ、今をどう生きるかを考えよ――。いわゆる「メメント・モリ(死を想え)」の思想をこれ以上ない形で表現したのです。

 

この場所は、19世紀には知識人や貴族たちの人気見学地となり、ナポレオン3世や外国王族まで訪れるようになりました。

 

外交のおもてなしとしてVIPを連れていく場所となったことにも、上流貴族の退屈や退廃、俗悪趣味を読むこともできるかもしれませんが、決してそれだけではない思想性が認められていたことも間違いないでしょう。

 

「生のパリ」と「死のパリ」

 

――と語っておいてなんですが、著者個人の率直な感想を言えば、「いや、やっぱりかなり悪趣味ではある(笑)」という印象も消えません。

 

頭蓋骨を模様のように並べた場所は今は観光名所となり、皆が写真を撮りながら歩いていく。その光景には、どこか倒錯的なものを感じます。

 

そして、それは自分自身にも。

 

しかし、おそらく重要なのは、その居心地の悪さ、不快さそのものです。

 

きらびやかなシャンゼリゼ通りを歩く人々も、ルーブル美術館の傑作に見惚れる人々も、足元には600万人分の死が広がっている。

 

地上の美しく洗練された「生のパリ」と背中合わせの地下の「死のパリ」。

 

その矛盾を隠さずむき出しにしているからこそ、カタコンブは今なお、「あこがれのパリ旅行」の行き先の一つとして、強烈な印象を残し続けているのでしょう。

【ブックガイド】ジャック・セゲラ著「広告に恋した男 洗剤から大統領までを売るフランス広告マンの仕事術」を読む

伝説的な企業広告・マーケティング戦略を手掛け、一代でフランス第二の広告会社を作り上げたフランスのマーケター、ジャック・セゲラ。

 

彼の自叙伝が『広告に恋した男: 洗剤から大統領までを売るフランス広告マンの仕事術』(ソーシャルキャピタル)だ。

 

ジャック・セゲラの数々の伝説的な仕事は、広告の可能性そのものを大きく広げたものとして評価されている。一例を挙げると、スーパーマーケット業界の常識を覆した、仏小売カルフールのプライベートブランド(PB)商品「プロデュイ・リーブル(「自由な商品」の意)」がある。

 

白地に黒文字が入ったシンプルなパッケージ、広告費を削って安く良いものを、という消費者の価値観、感性に問いかける逆転の発想は、モノを売り込む宣伝にとどまらない画期的な表現手法として、小売り各社のPB、日本では無印良品などにも強い影響を与えた。

 

そして、1981年の仏大統領選挙ではミッテラン陣営のキャンペーンを担当。「La Force Tranquille(静かなる力)」のスローガンのもと、大方の予想を覆し当選に導いた。セゲラの仕事は、商品の販売戦略だけにとどまらない広告の可能性を作り出したのだ。

 

さて本書は、セゲラが自身の生い立ちから、数々の仕事のエピソードを回顧する内容。

 

戦後の退廃的、デラシネ(根無し草)的な若者文化を身にまとった彼。印象的に描かれるのは、広告業界に身を投じる決意をさせたきっかけとなった、若き日に試みたシトロエンでの世界一周。

 

その旅は、大量消費社会の到来、そしてテレビをはじめとしたマスメディアが、広告の世界を大きく変える確信を得させるものだった。ちなみに旅行中に日本の広告文化に大きな影響を与え、無印良品を手掛けることになる西武・セゾンとの関わりが語られているのは興味深いところでもある。

 

そして広告業界での彼は、どこか捨て鉢さを感じさせる破天荒さで、既存の広告の枠組みを広げ、頭角を現していく。

 

サルバドール・ダリ、ジャック・プレヴェール、セルジュ・ゲンズブールらアーティストとの交流のエピソードは華やかでまばゆいばかりだ。特にダリに広告制作を依頼した際の、虚々実々のやりとりは刺激的。それまでインテリ層に軽視されていた広告を一流アーティストの表現の場としたのも彼の重要な功績だろう。

 

一方でセゲラには「無節操」「軽薄」「金の亡者」等々の悪評もあり、毀誉褒貶も激しい。大統領選で力を発揮した選挙マーケティングについても、のちにミッテランの政敵の陣営に協力するなど、確かに無節操と囁かれるのもうなずける部分もあったりする。彼自身にもつねに仕事への葛藤があり、その胸の内は本書でも繰り返し吐露される。

 

しかしキャリアを積み重ねるうち、彼は「広告は世界を救う」(!)との確信に至っていくのだ。

 

それが爆発しているのが本書の最終章。「広告の皮相性は、それ自体に価値がある」「実用の芸術」「コミュニケーションの楽園」等の言葉が冴えわたる。この広告賛歌のうたいあげは白眉といえる部分ではなかろうか。

 

70年代フランスの流行に関する記述、言葉遊びにはわかりにくいところもあるが、皮肉や自己韜晦、そして裏返しの誇大妄想的な言葉の数々。ビジネス書で取り上げられることが多いアメリカの広告業界とは一味違う、スピリット、否「エスプリ」が感じられる。

 

爆発的に拡大するメディアを乗りこなし、新世界あるいは空中楼閣を築いた彼の一代記。さらに多様化するメディア環境にある現代になおも通用する先端性を読み取るか、あるいは古き良き時代を懐かしむか。いずれにしろ、メディア関係者やマーケター、またアート愛好者は手元に置いておきたい一冊である。

 

 

【おまけ】

ちなみに本書、日本での最初の刊行は1984年。長らく絶版されていたが、プロジェクト「絶版新書」により復刊された。タイトルは原題の『Ne dites pas à ma mère que je suis dans la publicité… elle me croit pianiste dans un bordel』を訳した『広告やってるなんて母さんには言わないで……安宿のピアノ弾きだなんて思うから』から、当世ビジネス書風の『広告マンの仕事術!』になっている。原題の「エスプリ感」は薄れてしまうきらいはあるものの、妥当だろう。だって意味わからん!

 

 

 

パンテオン:教会、霊廟、または革命の記念碑 ― 近代フランスを映す多面体 

カルティエ・ラタンの丘の上に突然あらわれるパンテオン(Panthéon)。古代ギリシャ神殿を思わせる列柱と、円筒型の建物上階、そして巨大なドームが目を引きます。

 

その圧倒的な外観に吸い寄せられるように中へ入り、内部を歩けば、そこにはゴシック教会を思わせる高さと光に満ちた空間が広がっています。

 

厳かな宗教的装飾が施されるなか、ドームの真下には巨大な振り子が揺れ、フランス革命を記念する碑が建てられています。そして地下墓所(クリプト)には、国家の偉人たちの墓がずらりと並んでいます。

 

ここで、ある不思議な感覚に包まれます。「いったいこれは何の建物なのだろう?」ーー。それは見学中だけでなく、旅を終えたあとも心に残り続ける感覚です。

 

パンテオンの特徴は、その“多面性”にこそあります。

 

この建物は、時代ごとに社会を映す鏡のように、その役割を変えてきたのです。


キリスト教と王権と理性

以前、ローマのパンテオンについて記事を書きました。偶然というべきか、その時も「何の建物だろう?」と戸惑ったという話をしました。

 

nani-yomu.hatenablog.com

 

とはいえ、紀元前に完成したローマのパンテオンほど、パリのパンテオンは古い建物ではありません。

 

建設が始まったのは18世紀末のこと。国王ルイ15世(Louis XV)が病気から回復したことを祝うため、パリの守護聖人サント・ジュヌヴィエーヴに捧げるカトリック教会の建設が決定したのが始まりでした。

 

「宗教」と「王権」とが深く結びついていた時代だからこそ、「神に祝福される王」というイメージを提示することはきわめて重要だったのです。

 

一方で、デザインされた外観には、ギリシャ建築のような“異教的”なモチーフも色濃く見られます。

 

これは18世紀のヨーロッパで流行した「新古典主義」と呼ばれる潮流によるものです。啓蒙思想の広がりとともに「理性」への志向が強まり、理想の美学として古代ギリシャ・ローマ的な要素が取り入れられました。

 

キリスト教と王権、そして理性。つまりパンテオンは、完成前からすでに多様な価値観をその身に内包していた建築でもあったといえます。


フランス革命の光と影

果たして、完成した瞬間に時代が大きく変わります。18世紀末にパンテオンが完成したとき、パリではすでにフランス革命が成就されつつありました。

 

王政を廃止し、共和政を宣言した革命政府は、「王と神」の象徴だったこの教会から宗教性を剥ぎ取り、「国家の偉人たちを祀る場所」へとその意味を書き換えていきます。

 

その象徴ともいえるのが、内部に設置された「国民公会(Convention nationale)」の群像です。「市民」を政治の中心に据えた国民公会は、まさに革命精神の象徴でした。

その碑には、こう刻まれています。

 

「自由に生きよ、さもなくば死を」

 

しかし、この“自由”を掲げた革命は、やがて強烈な暴力性を帯びていくことになります。

急進派であるジャコバン派(山岳派)が主導権を握り、ロベスピエールによる恐怖政治へと突き進んでいったのです。自由と平等を掲げた革命が、皮肉にも大量の処刑と暴力を生み出していく。

 

この革命そのものが持つ“両義性”は、パンテオンの運命にも重なっていきます。


時代に揺れ動いた歴史

19世紀に入ると、フランスはさらに激しく揺れ動きます。 ナポレオン・ボナパルト(Napoleon Bonaparte)の時代、王政復古、共和政、そしてナポレオン3世(Napoleon III)の台頭。

 

政権が変わるたびに、パンテオンは「教会」になったり、「偉人の殿堂」になったりと、その役割を何度も変更されることになります。

 

そして1885年、『レ・ミゼラブル』を著した文豪ヴィクトル・ユゴーの埋葬をきっかけに、現在の姿である「フランスの偉人たちが眠る国立霊廟」としてようやく定着していきました。

 

ここに埋葬されている偉人として、文学者ではユゴーのほか、エミール・ゾラ、アレクサンドル・デュマらが名を連ねています。

 

また、啓蒙思想の二大巨頭であるヴォルテール(Voltaire)とジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)も眠っています。生前は思想的に激しく対立していた二人ですが、現在は地下で向かい合うように配置され、静かな“再会”を果たしています。

 

さらに、近代の精神そのものでもある「科学」を象徴する人物として、マリー・キュリー(Marie Curie)も埋葬されています。彼女は、自らの功績によって女性として初めてパンテオンに祀られた人物でもあります。


科学的合理主義の証明

パンテオンが見せる科学的合理主義の思想を、最も端的に表しているのが、中央に吊るされた巨大な「フーコーの振り子」です。

 

1851年、物理学者レオン・フーコー(Léon Foucault)は、この高いドーム空間を利用し、「地球が自転していること」を視覚的に証明しました。

 

振り子そのものは、常に同じ方向に揺れ続けようとします。しかし時間が経つにつれ、地球の自転によって、床の目盛りとの位置関係が少しずつずれていく。動いているのは振り子ではなく、私たちが立っている地球のほうだった――。左右対称の壮麗な空間のなかで、その宇宙の真実が劇的に示されたのです。

 

興味深いことに、この実験が行われた1851年当時、パンテオンは政権の都合で再び「教会」に戻されていました。宗教施設の内部で、「地球が動いている」という科学的真理を証明する。それはどこかアイロニックな光景かもしれません。


パリの街を見渡して

教会として生まれ、革命によって役割を書き換えられ、偉人たちの眠る霊廟となり、科学実験の舞台にもなったパンテオン。まるでフーコーの振り子のように、この建築もまた、時代ごとの価値観のあいだを揺れ動いてきました。

 

丘の上の最上部にある展望台から、ノートルダム大聖堂(Notre-Dame de Paris)、エッフェル塔(Eiffel Tower)、サクレ・クール寺院(Sacré-Cœur)など、パリの街を360度見渡してみると、フランスの歴史や近代の激動、そして人間の営みとは関係なく、刻々と回り続けている地球の動きが、ふとリアルに実感できるかもしれません。

 

 

グラン=プラスとギャルリ——「街歩き」の魅力がつまったブリュッセル旧市街

ベルギー・ブリュッセルを訪れるなら必ず見ておきたいのが「世界で最も美しい広場」と称されるグラン=プラス

 

中世に市場として発展し、ギルド(同業者組合)の建物がその壮麗さを競うように立ち並ぶ一角です。それぞれの職業で使う道具が模られた紋章などに、彼らの誇りを感じ取ることができます。

 

1695年のフランス軍による砲撃で木造建築の多くは焼失しましたが、ギルドのメンバーにより早急に再建、現在の景観は17世紀末から続くもので、広場全体がユネスコの世界遺産に登録されています。

中でも15世紀に創建されたゴシック建築、非対称の外観と塔が印象的な市庁舎(写真左)は広場の象徴的存在で、現在もブリュッセル市庁舎として使われています。

 

そして王の家(ブロッドハウス:写真右)。実際は王ではなく公爵の邸宅で、柱が垂直に立ち並ぶネオゴシックの建築ができたのは16世紀。過去には牢獄であったこともあります。現在は市立博物館で、小便小僧のオリジナル像も保管されています。

 

なおこの両建築、うまく写真が撮れていなかったのでパブリックドメインからお借りしました。

 


■ グラン=プラス周辺は「歩くための街」

グラン=プラスの魅力は、歴史ある建物一つもさることながら、それらが集まって生み出す“空間そのもの”にあります。

 

広場に建ち、ぐるりと見回すと、様々に変化しながら空を切り取る破風の形が面白く、写真では絶対に絶対に伝わらない「ここにいること」の価値が感じられます

 

そして広場から外に出れば、細い路地や曲がりくねった道、小さな広場が連続し、どこからも絵になる風景が展開します。

 

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ちなみに前回紹介した小便小僧は、グランプラスから路地に入り徒歩数分のところにあります。細い道でジュリアン君にふと出会う体験(実物の小ささに拍子抜けする体験含めて?)も、楽しい思い出になるはずです。

同じ空間でも、時間帯や光、人の流れによって表情は変化します。夜の広場にはぜひ足を運びたいところ。ライトアップが施され、昼間とはまったく異なる幻想的な景色になります。

 

 

歩き疲れたら、近辺はカフェやレストランも多く一息。ムール貝や白ワインなどを出すオープンテラスの入りやすいお店は魅力的です。ただし、特にグランプラス周辺は観光地価格の店も多いので注意したいところ。

 


■ 「歩く楽しみ」をパッケージするギャルリ

 

ブリュッセルの「街歩き」の魅力を凝縮した場所がすぐ近くにあります。

 

1847年に完成したヨーロッパ最古級の屋根付きアーケード、ギャルリ・サンテュベールです。

 

グランプラスから徒歩一分ほどの入り口からガラス屋根を持つアーケードへ。自然光が差し込む優雅な通路には、チョコレート店やカフェ、ブティックなどの個性ある店舗が全体として統一感を作り出しています。

ここは単なる買い物の場ではなく、商品を“見せる”文化が洗練した空間。ショーウィンドウを眺めながら歩く——いわゆるウィンドウショッピングの原型であり、“歩き回る楽しみ”そのものをデザインした場所といえるでしょう。

 

ちなみに小便小僧のパロディ的存在の「小便少女(ジャンネケ・ピス)」はギャルリの突き当り近くにあります。

■ 最後に

グラン=プラスの壮麗さ、ギャルリの洗練された空間、そして路地裏の雑多な風景。これらは単体でも魅力的ですが、歩くことで空間がつながり、深まっていきます。

 

観光地を効率よく回るのではなく、スマホに頼りすぎず、同じ道を何回も通り迷いながら時間をかけて歩く。自分だけのルートで発見を重ねながら、思い思いに地図を描き出す——そんな体験こそが醍醐味なのです。

「がっかり観光地」といわないで ベルギーの小さな英雄「小便小僧」をもっと愛でるための豆知識

ベルギー・ブリュッセル、「世界で一番美しい広場」ともいわれるグラン=プラスから路地へ一歩入ると、何やら不思議な人だかりの一角があります。

 

中心にいるのは、そう、あの少年です。ここに来た人は「ついにお目にかかれた!」という感動とともに「……おや、意外と小さい?」という本音も口をつきます。

 

いや、これから行かれる方にネガティブな予断を与えてはいけませんね。

 

今回は、世界的に有名でありながらいろいろ言われがちでもある小便小僧(マネケン・ピス)をもっと楽しむための豆知識をまとめました。


■ モデルは不明(ただし有力説は2つ)

まずこの像、1619年に彫刻家ジェローム・デュケノワによって最初に作られました。

 

現在はジュリアン君という通称で呼ばれているのですが、実は「誰がモデルなのか」がいまだにはっきりしていません。

 

現在、語り継がれているのは主に2つのドラマチックな説です。

  • 幼き領主説(ゴドフロワ2世): 12世紀、わずか2歳の領主が戦場へ。籠の中から敵軍に向かって放尿し、味方の士気を爆上げして勝利に導いたという「勝利の象徴」説。

  • 庶民の英雄説: 敵軍が街を爆破しようと導火線に火をつけた際、おしっこで火を消して街を救ったという「機転のヒーロー」説。こちらの少年の名前としてジュリアンが定着する。

この像以前から、ブリュッセルには同じモチーフの噴水があったといわれていて、人々の心の中で、もともと共通の小さな英雄のイメージがあったようです。


■ 実は「影武者」が立っている

現在、街角で元気に放尿している彼は、実は1965年に設置されたレプリカ

 

ジェローム・デュケノワが制作したオリジナルは、度重なる盗難や破壊の被害に遭ったため、現在は「ブリュッセル市立博物館」で大切に保護されています。

 

私たちが目にする彼は、雨の日も風の日も街の最前線に立ち続ける、屈強な「2代目」なのです。


■ 世界一のコスプレイヤー

彼はいつも裸であることから、世界中の同情を集めたのか、服を寄贈されるのが恒例となっています。

 

最初の衣装が贈られたのは1698年。当時スペイン領だったブリュッセルはフランスと激しい戦闘が行われていました。その折フランスの兵士がふざけて像を盗む事件が発生。ブリュッセル市民の怒りを買い、お詫びとして太陽王ルイ14世が豪華な服を贈ったそうです。

 

各国の民族衣装から、サンタ、宇宙飛行士、日本の「侍」や「桃太郎」まで1000着以上が寄贈され、近くの衣裳博物館に展示されています。

 


■ ときどき“ビール”を振る舞う太っ腹

普段は水を出し続けている彼ですが、特別な祝祭日には中身が本物のベルギービールに変わり、その場に居合わせた観光客にビールが振る舞われることもあります。

 


■ 実は「チーム・ピス」で活動中

ブリュッセルの街には、彼を筆頭とした“シリーズ作品”が存在します。

  1. 小便少女(ジャンネケ・ピス): 1987年誕生。

  2. 小便犬(ズィネケ・ピス): 1998年登場。

実はこれらすべて、徒歩圏内に点在。街を散策しながら「小便シリーズ」をコンプリートするのも、ブリュッセル観光のちょっとした楽しみ方です。


■ 「がっかり名所」という名の勲章

やはりこの話題に触れないわけにはいきません。実は彼は不当にも?世界的に「期待外れ」と言われがちな少年です。

 

誰ともなく語られる世界三大がっかり観光地として「シンガポールのマーライオン」「コペンハーゲンの人魚姫像」とともに挙げられます。

 

格安航空会社easyJetによる2,000人の調査でも、マネケン・ピスは「最もがっかりした観光地」第3位。回答者の8割が「行く価値がない」と答えたというから、なかなかの評価です。

 

ちなみに同調査の1位はパリ・ルーブル美術館の『モナ・リザ』、2位は、ベルリンの東西ドイツの検問所があった「チェックポイント・チャーリー」となっています。

 

この像が「がっかり」といわれるようになったのは、その知名度による期待の大きさと実際の小ささ(物理)のギャップ。また、前述のようにレプリカであることも要因かもしれません


 最後に

ブリュッセルはグラン=プラスの豪華絢爛な建築美をはじめ、必見の見どころが多数あります。その中で、路地裏でポツンと立つ55cmのジュリアン君は、確かにがっかりといわれる理由はなくはないのかもしれません。

 

しかし美しい街並みの中での軽い拍子抜けを誘う姿には、一種の「外し」「抜き」のような愛嬌があり、町全体のプロモーションの一部にも思えてきます。

 

「ブリュッセル最古の市民」と親しまれる彼が映し出す街の歴史とユーモア精神が、どんな巨大なモニュメントにも出せない魅力となっているのです。