ナニヨム・ザ・ワールド

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バルセロナの奇妙な建築 アントニ・タピエス美術館と、著書『実践としての芸術』が教えてくれたこと

赤レンガ上空の「落書き」

スペイン・バルセロナの街歩きといえば、アントニ・ガウディの建築。サグラダ・ファミリアをはじめ、カサ・バトリョ、カサ・ミラなど、一日中散策を楽しめるほど、印象的な建築が並んでいます。

 

しかし、バルセロナで強烈な存在感を放つ建物は、ガウディだけではありません。

 

私が旅行したとき、思わず足を止め、カメラを向けずにいられなかった建物がありました。

 

赤レンガの重厚な外観に、左右対称でどこか時代がかった宮殿風の建築。ところが、その屋根の上にはワイヤーのようなものがもじゃもじゃと入り組み、その中に椅子が絡め取られたような奇妙な造形物があります。

 

まるで、歴史的建造物の上空に「いたずら書き」をしたかのようです。

 

調和をわざとざわめかせたような建築に「なんだ、これは?」と思いながらシャッターを切ったものの、その時は結局、中には入らず通り過ぎてしまいました。

19世紀建築と現代アート

帰国してから調べてみると、その建物は「アントニ・タピエス美術館(Fundació Antoni Tàpies)」でした。

 

建物はもともと19世紀末に出版社として建てられたもので、後に改修され、既存の古い建築の上にタピエス自身の作品を載せた姿になりました。

 

屋根の上の作品は『Núvol i cadira(雲と椅子)』という名称です。

 

19世紀の歴史的建造物と現代アートがぶつかり合う緊張感こそが、あの時感じた違和感だったのです。

 

素材と痕跡、繰り返されるモチーフ

恥ずかしながら、私はそれまでアントニ・タピエスという名前を知りませんでした。

 

タピエスはバルセロナ生まれで、20世紀後半のスペイン、そしてカタルーニャを代表する現代美術の巨匠です。

 

彼の作品には絵や彫刻、版画などがありますが、常に立体的で、手触りのある素材感があります。

 

絵画であっても土や砂で荒らされた凹凸、傷や擦れた跡が施され、穴を穿ち、破れ、まるで生の「傷痕」のように提示されます。数字や十字などの謎めいた記号も、執拗に繰り返されます。

 

私が美術館の屋根の上で目撃した「椅子」もまた、彼が生涯にわたって繰り返し用いたモチーフの一つです。

 

『実践としての芸術』を読んでみる

さらに心に引っかかった私は、彼の著書『実践としての芸術』(水声社)を手に取りました。

 

タピエスがさまざまな媒体に発表したエッセイや論考をまとめた一冊。アートとは何か、前衛とは何かといった、タピエスの思考を覗くことができます。

 

テーマは多様です。硬直し、階層化したアート界やアカデミズムへの批判、そして翻って、禅や浮世絵、中国の文人画、東洋思想への強い関心などが語られます。

 

子ども向け雑誌への寄稿もあります。ここでは「見る」という行為の大切さを優しく語り、大人の言うことをそのまま受け取る前に、まず自分で見ることを勧めます。

 

作品に繰り返し現れるモチーフについて、「これは何を意味しているのか」という、ありがちな(そして面倒な)質問への「回答」、アーティストとお金の話。

 

若き日に、緊張しながらピカソと初対面した際のエピソードを語るエッセイなどもあります。

 

難解な作品をものする芸術家の本ですから、かなり身構えての読書でした。たしかに、当時の政治や美術界の文脈を知らなければ読み取れない部分も少なくはありません。

 

しかし、記述自体を自己韜晦のためにわざと難解にしている、という印象はなく、わかる部分だけでも強いインスピレーションを感じられる読書でした。

 

芸術と政治の関係

なかでも重要なテーマが、アートと政治との関わりです。

 

彼はフランコ独裁政権への抵抗やカタルーニャの権利主張にコミットし、社会的・政治的な発言も積極的に行いました。カタルーニャ国旗を用いた作品もあります。

 

本書でも「芸術家は政治的であってはならない」という安易な言葉を、彼は全面的に否定しています。

 

芸術家はつねに現実と向き合い、政治家とも科学者ともジャーナリストとも付き合うべきだと断言するのです。

 

アートは常に社会に向けたものであり、作品に対し何かを感じた人が呼応し、そして自らの表現を行う、高度なコミュニケーションといえるもの。

 

しかし他方で、政治的目的に従属し、そのためのプロパガンダとなれば、アートは消えてなくなります。

 

アーティスト的現実とは

タピエスは、どんな党派と関わろうと、創作には絶対的な自由があり、本質的に孤独な営みであると強調しています。

 

ある状況や環境に置かれ、知識を持ち、政治的な理想も持ち、逃げられない身体を持ち、理屈抜きで迫ってくる想念や手癖のようなものを持つ人間が、いまここで、限られた素材と形式を使って、何かを表現する。

 

それは、自分にしかできない、ごまかしのきかないもの。タピエスは、なかば逆説的に「アーティストは最も現実主義者」なのだといいます。

 

政治に関わりながら党派に取り込まれず、商品として取引されながら資本の論理に取り込まれない。

 

それは、奇跡のようであり、挑発的で、また危うい「実践」なのです。

 

タピエスは、ダダイスムやシュールレアリスム、ミロ、ピカソ、クレーへの言及では、形式を異にしながら、それぞれの状況で自らの表現形式を選び取ってきた先達に敬意を示しています。

 

「この現代に、芸術家であるとはどういうことか」「いま、ここで私が表現することにどんな意味があるのか」――。

 

そんな問いに悩み、壁にぶつかっているアーティストにも、多くの示唆を与えてくれるはずです。

 

建築との緊張関係を味わう

本書には建築に関する記述が少なく、むしろ実用主義的な「建築」というジャンルに対して警戒感を抱いているように読み取れます。

 

ガウディについても名前は出てきますが、言及はほとんどありません。

 

そのタピエスが、バルセロナで19世紀の重厚な出版社の屋根の上に自らの作品を載せ、建物の調和を揺さぶっている。

 

そう考えると、あの美術館の姿は、より刺激的です。

 

かつて私は、なんとなくカメラを向け通り過ぎてしまいました。

 

もし今度バルセロナを訪れる機会があれば、あのとき感じた「ざわめき」を、もう少し深く味わえる気がします。

 

バルセロナに赴く際は、ガウディの壮麗な世界だけでなく、ぜひアントニ・タピエス美術館にも足を運び、その建築と作品の数々をご覧になってください。

 

なおバルセロナの街中にはほかにも、タピエスがピカソに捧げたモニュメント「Homenatge a Picasso」(こちらも椅子がモチーフ)などの作品を見ることができます。

 

本を読んで予習していくのももちろん面白いのですが、何より大切なのは、タピエスが子どもたちに語りかけたように、自ら目を見開いて「見る」という体験でしょう。

 

皆様の心に、どんな「痕跡」が刻まれるでしょうか。

猛暑がくれた贈り物 8月にローマのコロッセオとパンテオンが夜間開館

(Unsplash Nitin Pouniker氏による撮影)

酷暑が変えたローマ観光

近年のヨーロッパを襲う猛暑は、厳しさを増しています。そんな中、永遠の都イタリア・ローマから興味深いニュースがありました。

 

イタリア文化省などは7月25日、今年8月限定で、古代遺跡コロッセオ(コロッセウム)とパンテオンの「夜間開館」を試験的に実施すると発表しました。

 

コロッセオでは金曜・土曜限定で午後7時45分から午後11時30分まで、パンテオンでは木曜を除く毎日午後11時まで見学できるようになります。

 

深夜開放の理由は「熱中症対策」です。

 

コロッセオでは連日、日中の見学中に平均約10人もの観光客が体調を崩していたそうで、危険な暑さがこの異例の判断を後押しした形です。

 

しかし、旅行者の立場から見れば、この決定は思わぬ「ご褒美」かもしれません。

 

暑さを避けられるだけではなく、古代ローマの遺構が魅せる夜の表情を楽しめる絶好のチャンスになるからです。

 

闇に浮かぶコロッセオ

とくに注目したいのが、夜空に向けてダイナミックに開けた構造を持つコロッセオです。

 

これまでも夜のライトアップされた美しい外観は人気でした。しかし「内部」を見る機会はほとんどありませんでした。

 

ツアーなどで夜間に公開された例はあるようですが、一般開放ではなく参加者は限られていました。

 

実際、ネットで「コロッセオ・夜」のように画像検索してみても、見つかるのは外観の写真ばかり。報道機関によるものや空撮などを除けば、夜のコロッセオ内部の写真はあまり出回っていません。

 

夜のコロッセオ内部は、この夏だけの特別な体験であり、写真好きにとっては最高の被写体になるはずです。

 

ライトアップはどのような形になるのか不明ですが、今回の措置はあくまで安全のための緊急対応であり、テーマパークのようなショーアップされた演出照明が施されるわけではないでしょう。

 

いくつかのライトが静かに内部を照らすという、最低限のライティングになることが予想されます。

 

しかしこの場所に派手な演出など必要ありません。

考えてみただけでも、このようなすばらしい光景が目に浮かびます

 

  • 光と影が織りなす回廊

    観客席の跡を形成する回廊。巨大な石造りのアーチの折り重なりに光が射すことで、濃密な陰影のコントラストが生まれます。

  • 静寂に沈む地下遺構(ヒポゲウム)

    かつて剣闘士や猛獣たちが待機していたという、複雑に入組んだ通路と部屋の跡。照明に照らし出されるその深淵は、文字通りのショーの光と影を示します。

  • 夜空へとそびえるシルエット

    内部から見上げる巨大な外壁のシルエット。石壁が夜空へと吸い込まれるように伸び、ローマ帝国の壮大さをドラマチックに語りかけてくるでしょう。

月明かりのパンテオン

そして、もうひとつ深夜公開されるのがパンテオンです。

 

紀元前27年に起源を持ち、約2000年もの間ほぼ完全な姿で残り続けている奇跡の巨大ドーム建築です。

 

重厚なブロンズの扉の先に待っているのは、昼間の混雑や喧騒が嘘のように消え去った、静謐な円形空間。

 

昼間は天井中央の円窓(オクルス)から差し込む、くっきりとした「一本の太陽光」が有名ですが、夜にそこから覗くのは、柔らかな月明かりや、深く青いローマの夜空。

 

ラファエロや歴代国王の墓が静かに眠る場所で、2000年の時の重みを静かに、厳かに、肌で感じられるのではないでしょうか。

この夏、ローマを旅する人へ

観光客を守るための安全対策として始まる夜間開館は結果として、ローマに新たな魅力を付け加えます。

 

この夏の終わりには、SNSや旅行サイトに、これまで誰も見たことのなかったような夜のコロッセオやパンテオンの「エモい」写真が、次々と投稿されることになるでしょう。

 

その体験ができる人に、少し羨ましい気持ちでこのニュースを眺めています。

 

今夏ローマを訪れる人にとっては、きっと一生ものの特別な思い出になるはずです。

 

ぜひ貴重な体験を存分に楽しんできてください。(暑さ対策は忘れずに)

 

nani-yomu.hatenablog.com

 

nani-yomu.hatenablog.com

 

 

あの夏、ユースホステルで出会った清涼感「シャワージェル」のおもいで

今年も暑くなってきた。

 

この季節になるときまって、10年以上前にヨーロッパを旅したときの体験を思い出す。

 

パリのユースホステルに泊まったときのことだ。

 

ユースホステルあるあるとして、シャワールームの忘れ物が「共有物」になる現象がある。棚の上には誰かが置いていったシャンプーやボディソープが並んでいて、後に入ってきた者はなんの疑いもなくそれを手に取る。

 

その中に、見慣れない文字のボトルがあった。

 

"Shower Gel"

 

シャワージェル。シャンプーでもボディソープでもない。これは何者なのだろうか。

 

裏面を読むと、

「身体に塗って洗い流してください」

と英語で書かれている。

 

……なんだそれ。

塗って流すだけでは洗ったことにならないし、洗い流してしまえばボディローションにもならない。

 

手に取って擦り合わせてみる。

ちゃんと泡立つ。粘度は低く、ボディソープほどモコモコと泡立たないが、体を洗うには十分だ

 

「塗って流す」と書いてあるものの、せっかくなのでタオルで泡立て、身体をこすって洗った。

 

メントールの爽快感と香りが強くしばらく続いた。暑い夏には気持ちよい使用感だ。

 

気に入ってしまった私は、その後スーパーでシャワージェルを購入。夏の長旅の相棒になった(共有物をパクらなかった俺えらい)。

 

そして旅の終わり、どこか別のホステルのシャワールームへ置いて帰ったはずである。


日本では全く存在感なし

帰国後、ふと思い立ってシャワージェルをドラッグストアで探してみた。

 

ない。

 

もともと見たこともなかったのだから当然といえば当然なのだが、本当に見当たらないのだ。

 

「欧米で定着しているなら、なんだかんだ日本にも入ってきて流行るだろう」

 

そう思っていたが、10年以上経っても「シャワージェル」は日本ではマイナーなまま。というより、商品カテゴリとしてほとんど存在していないように見える。


シャワージェルとは何か

結論から言えば、シャワージェルは液体状のボディ洗浄料である。

 

役割は、日本でいうボディソープと変わらない。使い方も手やスポンジに取って体に塗って洗い流すというものだ。

 

ただし、いくつか特徴がある。

  • ジェル状で透明または半透明
  • 「塗って流す」がメインで、「泡立て、擦る」使い方は強調されない
  • 柑橘系、ココナッツなど香りのバリエーションが豊富
  • クール感を強調するものが多い

なぜ欧米で定番、日本でマイナー?

背景には、入浴文化の違いがある。

 

日本では湯船に浸かる文化があるが、欧米ではシャワーが中心だ。立ったまま短時間で汗を流し、さっぱりすることが求められる。

 

そのため「香り」や「爽快感」が、日本以上に重要な価値になる。

 

さらにヨーロッパには香水文化がある。ちょっとした外出前のシャワーでも、しっかりと香りの付いたものが好まれる

 

シャワージェル、ボディローション、香水を同じブランドでそろえ、香りを重ねて楽しむこともある。

 

シャワージェルは、その最初の一歩という位置づけである。

 

一方、日本にはすでに「ボディソープ」という強力なカテゴリが存在し、機能もほぼ同じといってよい。

 

あえて別の名前を付けて売る理由が乏しく、マーケティング的にも新しいカテゴリを育てる必要性が小さいのではないだろうか。


高まるブームの機運!?

とはいえ、私が初めてシャワージェルを知ってから10年以上が経ち、状況は少しずつ変わってきたようにも思える。

 

「風呂キャンセル界隈」という先鋭的な事例はともかく、湯船に浸からず、シャワーだけで済ませる人は以前より増えている(らしい)。

 

そして、日本の夏は年々アホみたいに暑くなり、湿度も高い。べっとべとである。

 

"シャワーでさっぱりしたい"

という需要は、昔より確実に大きくなっているはずだ。

 

シャワージェルが「ピン」で流行る余地があるのではないか、と思う。


Amazonでシャワージェル購入するには

ちなみに現在ECサイトで検索すると、ちゃんと「シャワージェル」はヒットする。

 

ただし、商品名にはっきり「シャワージェル」と書いている商品は輸入品が多い。

 

たとえばドイツのアルゲマリン(Algemarin)

amzn.to

 

イギリス・ユニリーバのAXE「Phoenix」

 

Amazon

 

などがある。

 

うろ覚えではあるが、AXEのシャワージェルは、私がホステルで使ったものに近い。

……というか、もしかするとまんまこれかもしれない。

 

ただ、AXEの場合、ボディソープは日本発で販売しているのだが、シャワージェルは輸入品しかないようで、非常に高い。

 

一方、国産メーカーでも似たような商品はある。しかし多くは「ボディソープ」の名称のようだ。

 

「シャワージェル」を謳っているのは、ザ・ボディショップなど、自然派・オーガニック系ブランドが中心なのも興味深い。

 

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欧米由来の製品にただよう、どこか「意識高め」のイメージが先行したカテゴリになっているのかもしれない。

 


国産「俺たちのシャワージェル」候補

しかし、本音を言えば私が懐かしく感じているのは、そういうおしゃれなものというより、謎の青いジェルで「スカッと爽快!」みないなノリのもの

 

そう思って探していると、国内メーカーのある商品を見つけた。

 

花王の「バブ 爽快シャワー スーパーエクストラクールジェル」だ。

 

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商品説明に「シャワーで流すボディジェル」との記載があり、明らかに欧米のシャワージェルを意識した商品だろう。

 

青を基調としたパッケージに、なぜかマンモスのようなイラスト。「カラダ一気に北極圏」という「冷感」をこれでもかと押し出した気取りのないコピー。

 

いいぞ!この庶民的なアプローチ!

 

いつから発売しているのかは分からないが、雰囲気も含めて「日本版・俺たちのシャワージェル」と呼びたくなる商品だ。

 

ここで興味深いことに気づいた。

 

この商品、Amazonでの分類カテゴリが「制汗デオドラント」なのだ。

 

「シャワージェル」という独立カテゴリがないだけではなく「ボディソープ」でもない。カテゴリ分けはいまだ混乱している様子だ。

 

ただこれは、ボディソープのカテゴリに入れ、既存の強力な製品群に埋もれてしまうことを防ぐためのポジショニングかもしれない。

 

すでに知名度のある入浴剤ブランド「バブ」のブランド拡張として発売していることからも、新しい製品カテゴリを何とか日本に定着させようという意志を感じる。

 

ともかく、成功を祈る次第である。

 


 

暑い毎日が続く中、懐かしい清涼感を追い求めるように思い出をたぐり、つらつら書いてみた。

 

あれ以来、時折思い出しつつ、積極的に買おうとしたこともなかったシャワージェルではあるが、せっかくここまで調べてみたので、この夏はスカッと再デビューしてみようと思っている。

不在のモニュメント──監獄のないバスティーユが今も人を惹きつける

1789年7月14日、革命の幕が開く

1789年7月14日。朝からパリの空気は張りつめていました。

 

パンの価格は高騰し、市民の暮らしは困窮。さらに国王ルイ16世が軍をパリ周辺へ集結させる動きを見せ、街には「革命は武力で鎮圧されるのではないか」という不安が広がっていました。そんな中、市民たちはどこからともなく、一つの場所を目指して集まり始めます。

 

それが、王権の絶対的な象徴でもあった巨大な要塞監獄、バスティーユでした。

 

午前中のうちに数千人もの群衆が押し寄せ、門を開けるよう交渉が始まりますが決裂。そして午後、ついに一発の銃声が響き渡り、民衆が牢獄内に殺到。激しい戦闘の末、夕方には巨大要塞は陥落することになります。

なぜ牢獄は消えたのか

バスティーユ陥落──。フランス史のあまりにも有名な名場面です。

 

要塞であり、軍事拠点であり、また堅固な監獄があったバスティーユの地。パリ旅行の際、その歴史の足跡をたどろうと、メトロ「バスティーユ駅」には今も世界中から多くの人々が訪れます。

 

しかし、地上へ出た瞬間、多くの人は少し拍子抜けすることでしょう。

 

「……あれ、牢獄はどこにあるんだろう?」

 

実は、現在のバスティーユに当時の建物は存在しません。それどころか、城壁や門など、かつての要塞の姿はほとんど残されていません。広場や道路の上に要塞の輪郭が線で示され、かろうじて当時の姿を想像できるのみです。

 

現在のバスティーユは監獄の重苦しい空気はどこにもなく、パリ屈指のカルチャー発信地となっています。

 

メトロの階段を上がると、車が絶え間なく行き交い、カフェのテラスには若者たちが集い、週末になれば音楽イベントやパレードが行われることも珍しくありません。

なぜバスティーユに牢獄がない?

バスティーユ牢獄は、他の多くの歴史的建造物がそうであるように、長い年月をかけて風化し、役割を終え、現代建築に置き換わったのでしょうか。

 

そうではありません。実は牢獄は1789年の襲撃からわずか数日後に解体が始まり、1790年にはほぼ姿を消していました。

 

取り壊された頑丈な石材は、パリ市内のコンコルド橋など、建設資材として再利用されたほか「革命の記念品」としてフランス各地の都市へ送られました。

 

「絶対王政の象徴を、この世から完全に消し去る」ということ自体が、当時の革命政府にとって極めて重要なメッセージだったのです。

 

広場の中心に立つ「自由」の象徴

現在メトロから地上に上るとバスティーユ広場が開け、まず目に飛び込んでくるのは、広場中央にそびえ立つ高さ約50メートルの「七月革命記念柱(Colonne de Juillet)」です。

 

青銅色の円柱の頂上では、黄金に輝く「自由の天使(Génie de la Liberté)」が翼を広げ、パリの空へ飛び立とうとしています。

 

この記念柱は、1789年のフランス革命ではなく、後に起きた1830年の「七月革命」を記念して建てられたもの。かつてのバスティーユ要塞の中庭の場所に当たり、まさに、革命の中心点に建っています。

右手には「表現の要塞」

視線を右へ向けると、歴史ある街並みの中でひときわ存在感を放つ巨大なガラス建築が現れます。

 

1989年にフランス革命200周年を記念して開館した国立劇場「オペラ・バスティーユ」です。

 

曲線を描くガラスと白いコンクリートでできた現代の要塞は、絶対権力の象徴から自由な表現、誰もが芸術を楽しめる市民文化の拠点へと姿を変えたのです。

実は監獄の面影を残すヨットハーバー

劇場の反対側へ目を向けると、広場より一段低い場所に穏やかな水面が広がっています。

 

サン・マルタン運河の終点にあたる「バッサン・ド・ラルスナル(アルスナル港)」で、多くのヨットやクルーザーが静かに停泊しています。

 

パリジャンが散歩を楽しみ、ボートがゆったりと揺れる穏やかな憩いの場は、かつてバスティーユ要塞をぐるりと囲んでいた「外堀」の跡。

 

高低差と地形は自然が作る防壁として機能していたことがわかります。現在、最もかつての要塞の輪郭をリアルに伝えてくれる場所といえるでしょう。

 

さらにバスティーユ豆知識

実は囚人はたった7人

「政治犯が何百人も閉じ込められていた恐怖の監獄」というイメージを持つ人は多いかもしれません。しかし、襲撃当日に収容されていた囚人はわずか7人。

 

その内訳は、偽造犯が4人、精神疾患のため家族の依頼で収容されていた貴族が2人、そして素行不良で拘留されていた貴族が1人。政治犯や思想犯は一人もいませんでした。

 

囚人の一人はあの侯爵!?

「素行不良で拘留されていた貴族」として、直前まで収監されていたのが「悪徳の栄え」「聖ジュスティーヌ」などで、倒錯的世界を描き出した高名なサド侯爵です。

 

ただし実際には襲撃の数日前、窓から『囚人が虐殺されている!』と嘘を叫んで民衆を煽ったため、別の場所に移送されていたといわれています。

 

つまり、上の「素行不良で拘留されていた貴族」の1人はサド侯爵のことではないようです。

民衆が欲しかったのは囚人ではなく「火薬」

監獄に向かったことは「囚人の解放」が目的と思われがちですが、当時の市民たちの最も切実な目的は「火薬」を手に入れること。

 

前日に廃兵院(アンヴァリッド)から大量の小銃を確保したものの、それを撃つための火薬が圧倒的に不足していたのです。

 

火薬庫を兼ねていたバスティーユへの襲撃は「囚人を救え」ではなく、「火薬を渡せ」という、当日の極めて現実的な要求。それが民衆の熱狂とともに一発の銃声とともに爆発した。

 施設は高級ホテル並み?

貴族らが収容される牢獄であり、囚人は意外なほど優遇されていました。豪華な食事とワインが提供され、私物や本を持ち込むことも許可されていました。召使いやペットの同伴まで認められる場合もあったといわれています。

 

思想家ヴォルテールもここに収監された経験がありますが、その間も悠々と執筆活動を続けていました。

 

「地獄の監獄」というおどろおどろしいイメージは、革命後の政治的な演出によって少し強調された面もあると言われています。

おわりに

毎年7月14日の革命記念日(パリ祭)になると、やはりこの広場は再び多くの人々で埋め尽くされます。

 

記念柱の周りに集まる人々を眺めていると、少し意地悪な見方をすれば、「なんとなく来てみたものの、とくにすることもなく、手持ち無沙汰に立っている」と感じないこともありません。

 

その一方で、この地は現代でもデモが頻繁に行われ、政治的なイシューが持ち上がる時期には、真っ先に警戒される場所でもあります。危険防止のために花火などの持ち込みが厳しく禁止されることもあります。

 

牢獄は消え、城壁も残っていませんが、人は今なお、この場所へと足を運びます。「世界が変革する場所」「自由の発信地」という地熱が、なおも漂っているようです。それこそが、バスティーユという地名が現代にまで持ち続けている求心力なのかもしれません。

唯一無二の存在感で魅惑するマレ地区のバロック建築ーーサン=ポール・サン=ルイ教会

 

パリ4区・マレ地区。

歴史的な建物や石畳の道が続く、時代を超えた美しさを持つ街。その中でも、ひときわ歴史を感じさせるたたずまいと、そしてひときわ大きく圧倒的な存在感を放つ建築があります。

 

高く細身のファサードには、コリント式の柱や彫像、繊細な装飾が隙間なく施され、中央には美しい円形時計。まるで宮殿のような風格を漂わせています。

 

これがサン=ポール・サン=ルイ教会(Église Saint-Paul-Saint-Louis)。

 

パリで本格的なイタリア・バロック様式を採用した最初期の建築であり、現在パリに現存する唯一のバロック教会です。

 

見事なファサードを持つ教会ですが、その真の面白さは横へ回り込んだときに見えてきます。側面から眺めると、意外なほど宮殿のような構造物が「薄い」のです。

そして裏側へ回ると、今度は正面からはまったく見えなかった大きなドームが姿を現します。

建物としての主役はこのドームであり、正面ファサードは、いわば巨大なスクリーン。見事に並ぶローマ式の柱の多くは建物を支える柱ではなく、壁から半分だけ突き出した飾り柱(付柱)として、建物に奥行きと壮麗さを与えています。

 

大胆な言い方をすれば、このファサードは「かきわり」です。劇場の舞台装置のように、人々を魅了し、感動を与えるために造られた意匠なのです。

 

見事なファサードに引き寄せられるように中へ入ると、いよいよドームが空間の中心として姿を現します。こちらも精巧な装飾や天井画が広がり、天窓から降り注ぐ柔らかな自然光が内部を包み込みます。

ゴシック教会の高い尖塔や細長い窓とは対照的に、丸みを帯びたアーチと大きなステンドグラスがふんだんに光を取り込み、白い壁がその光を反射します。薄暗く神秘的なゴシックとは異なり、空間全体には明るさと開放感、そして華やかさが満ちています。

 

サン=ポール・サン=ルイ教会は1627年から1641年にかけて、ルイ13世の命によりイエズス会の建築家たちによって築造されました。その手本となったのが、ローマのイエズス会本部教会「ジェズ教会」です。

 

16世紀以降、ヨーロッパでは宗教改革によってプロテスタントが勢力を拡大しました。

 

これに対抗したカトリック教会は、建築や絵画、彫刻を通して神の栄光や教会の権威を視覚的に伝えようとします。その中心を担ったのがイエズス会でした。

 

ゴシック建築が主流だったパリにおいて、サン=ポール・サン=ルイ教会の壮麗なファサードや内部装飾は、新しい時代を象徴する挑戦だったのです。

 

圧倒的な存在感を持つこの教会は、革命後の世俗化が進む時代にも、新たな歴史を重ねていきます。

 

まず目を引くのが、ファサード正面で輝く美しい時計です。

 

これはもともと隣接していた旧サン=ポール教会に設置されていましたが、フランス革命後の1802年に教会が解体された際、この場所へ移されました。

 

教会名が「サン=ポール・サン=ルイ」と二人の聖人の名を冠しているのも、二つの教区が統合されたためです。教会は名称だけでなく、その歴史や遺産までも取り込みながら現在の姿になりました。

 

革命後の19世紀、この教会はさらに芸術家たちによって彩られます。

『民衆を導く自由の女神』で知られるロマン主義の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワが描いた《オリーブ園のキリスト》(1827年)もその一つです。

 

革命によって多くの美術品や宗教施設が失われる中、新たな教会美術の制作が若い芸術家たちに託され、その白羽の矢が立ったのが26歳のドラクロワでした。

 

つまり、この作品は後から持ち込まれたものではなく、もともとこの教会の空間のために制作された絵画です。若き日の「ロマン主義の巨匠」のドラマチックな絵はこの荘厳かつ華やかな空間にマッチしています。

 

ドラクロワ自身もこの作品を大変気に入っており、パリ万国博覧会の際には、自らの強い希望で一時的に教会から取り外し、会場で展示したという逸話も残っています。

 

文豪ヴィクトル・ユゴーとの縁もあります。代表作『レ・ミゼラブル』にもこの教会は登場し、娘レオポルディーヌの結婚式もここで執り行われました。さらにユゴーは、貝殻をかたどった聖水盤を教会へ寄贈しています。

 

バロック建築の粋を集めたファサードと内部空間は、多くの人々を魅了するだけでなく、時代ごとの芸術家たちもひきつけながら歴史を刻んできました。

 

そして約400年の時を経た今もなお、時代を超えて愛されるマレの街並みの中で、唯一無二の存在感と”誘因力”を放っているのです。

歴史の層が密集する場の力――パリ「サン・テティエンヌ・デュ・モン教会」を訪ねる

ウディ・アレン監督の映画『Midnight in Paris』で、主人公が過去の時代へとタイムスリップする車の迎えを待つ、あの印象的な階段を持つ教会。

 

その舞台となったのは、パリ5区・カルチェ・ラタンの坂道を登りきった場所、パンテオンと背中合わせに佇む「サン・テティエンヌ・デュ・モン教会(Église Saint-Étienne-du-Mont)」だ。

中世とルネサンスが同居するファサード

パリの守護聖人・聖ジュヌヴィエーヴを祀るこの教会は、少し不思議な外観をしている。尖塔や鋭いアーチには中世ゴシックの空気が色濃く残る一方で、ファサード(正面)にはルネサンス建築の古典的で優雅な装飾が混ざり込んでいるのだ。

 

15世紀末から17世紀初頭にかけて、およそ100年以上を費やして建設されたという事実。この長い建設期間こそが、異なる時代の様式を一つの建物に内包させ、この建築最大の個性を生み出すこととなった。

奇跡的に残された、魅惑の「ジュベ」

そしてこの教会の本当の魔力は、さらに魅惑的な内部空間に隠されている。

 

聖堂へ足を踏み入れると、視線は自然と中央の白い構造物へと引き寄せられる。教会内部を大胆に横断するように架けられた石造りの橋――これこそが「ジュベ(Jubé:聖歌隊席仕切り)」と呼ばれるものだ。

 

ジュベとは聖職者が儀式を行う神聖な「内陣」と、一般信者が祈る「身廊」とを隔てるための仕切り。中世の教会においてはごく一般的に見られた構造である。

 

当時のキリスト教世界では、「聖なる領域」と「俗世」を明確に分けることが重要視されていた。聖職者たちはこの上部の通路に立ち、福音書を朗読し、民衆へ説教を行ったという。祭壇をあえて完全には見せないことで、宗教的な神秘性を高める役割も担っていたと考えられている。

パリで唯一、失われた中世の記憶

現在、ヨーロッパの主要な教会でこのジュベを見る機会はほとんどない。

 

16世紀以降の反宗教改革の時代になると、「聖職者と信者を隔てる壁をなくし、祭壇をより開かれたものにしよう」という思想が広まり、多くのジュベが撤去された。さらに追い打ちをかけるように、フランス革命では「旧体制(アンシャン・レジーム)の象徴」とみなされ、大半が破壊されてしまったのだ。

 

パリの象徴であるノートルダム大聖堂(Notre-Dame de Paris)も例外ではなく、かつて存在した壮麗なジュベは今はもう失われている。

 

現在、パリで当時の姿のままジュベを残している教会は、このサン・テティエンヌ・デュ・モン教会だけだ。ここは、ヨーロッパ宗教建築史の中でほとんど消滅してしまった空間構造を、いまに伝える極めて貴重な場所なのである。

石で織られた、軽やかなリボン

このジュベは、1530〜1540年代にかけて制作された。

 

白い石に繊細な透かし彫りが施された中央のアーチは、まるで宙に浮かぶ回廊のように聖堂を横切っている。そして左右の柱には、吸い込まれるような螺旋階段が巻き付く。

 

リボンのような曲線は、重い石材でできているはずなのにどこまでも軽やかで、まるで布や植物をそのまま彫刻したかのようだ。

 

異なる時代の要素がぎゅっと押し込められたこの教会で、奇跡的に生き残ったジュベ。 歴史の層が美しく密集するこの場に立つと、実際にタイムスリップするわけではないけれど、時空のゆがみ、そして時代の堆積の中に身体が引き込まれるような、心地よいめまいを覚えるのだ。

 

パリの地下に眠る「悪趣味」――カタコンブの“魅せる死”が私たちに示すもの

美しい石造建築、整然とした大通り、ブランドショップやおしゃれなカフェ。


パリは、世界でもっとも「洗練」という言葉が似合う都市のひとつです。

 

しかし、13区モンパルナス近くの公園地下およそ20メートルには、まったく別の世界が広がっています。

 

らせん階段を下りると、静寂に包まれた地下はひんやりと涼しい。そして視界に飛び込んでくるのは人間の骨、骨、そして骨。

 

ここは地下墓地「カタコンブ・ド・パリ」です。

装飾のような規則性をもって並べられた頭蓋骨。建材のように積まれた大腿骨。その不気味さに圧倒されると同時に、率直な戸惑いも覚えます。

 

なぜこんな場所をつくったのだろう。ここは単なる埋葬の場ではなく、あきらかに「展示空間」としてデザインされています。

 

納骨堂であれば、もっと別の方法もあったはず。人が歩いて見学できる形にする必要もありません。

 

近くには、著名人の墓が並ぶモンパルナス墓地もありますが、それとはまったく異質です。

 

率直に言えば、かなり悪趣味にも映ります。

始まりは「美しい都」を襲った腐臭

カタコンブ誕生の背景には、きわめて現実的な事情がありました。

 

それは18世紀のパリを悩ませた深刻な衛生問題。

 

当時、パリ中心部にあった「レ・イノサン墓地」は、千年以上にわたり庶民の遺体を受け入れ続けていました。

 

しかし人口増加に対して墓地の容量は限界を超え、土葬された遺体は地中で飽和状態となります。

 

地面は盛り上がり、周囲には強烈な悪臭が漂っていたといいます。

 

1780年には、ついに墓地の壁が崩壊。隣接する地下室へ大量の遺体が流れ込むおぞましい事故まで発生しました。

 

耐えがたい腐臭と疫病への恐怖に直面した市当局は、墓地の閉鎖を決定。あらなた埋葬場所を探す必要が生じます。

 

白羽の矢が立ったのが、ローマ時代から採石場として使われ、すでに廃坑となっていた地下空洞でした。この場所では石灰岩が切り出され、建築に利用されていました。

 

真夜中に続いた「骨の移送」

1786年以降、夜になると黒い布で覆われた馬車が、静かにパリの街を進みました。運ばれていたのは、いうまでもなく大量の人骨です。

 

司祭の祈りとともに、墓地から掘り出された膨大な遺骨が地下採石場へ移送されていく骨の数は、最終的に約600万人分とも言われています。

 

地下には積み上げられた「骨の山」。ただし、この時点では現在のような姿ではありません。

 

現在のカタコンブの異様な景観を作り出すにはある人物の存在があります。

 

「死を展示する」という発想

1810年、この地下空間の改修を任された鉱山検査官ルイ=エティエンヌ・エリカール・ド・テュリーは、ある大胆な発想を抱きます。

 

この場所を、単なる納骨場ではなく、「死を瞑想するための記念碑」に変えようとしたのです。

 

彼は骨を整然と積み直し、頭蓋骨を装飾的に配置し、通路には死をテーマにした詩や警句を刻ませました。

 

貧民も、富裕層も、聖職者も、すべて同じ白骨となって積み上げられている。

 

「どれほど美しさや財産を誇っても、死ねば皆同じ」すがすがしいほどの死の平等。

 

人は必ず死ぬ。だからこそ、今をどう生きるかを考えよ――。いわゆる「メメント・モリ(死を想え)」の思想をこれ以上ない形で表現したのです。

 

この場所は、19世紀には知識人や貴族たちの人気見学地となり、ナポレオン3世や外国王族まで訪れるようになりました。

 

外交のおもてなしとしてVIPを連れていく場所となったことにも、上流貴族の退屈や退廃、俗悪趣味を読むこともできるかもしれませんが、決してそれだけではない思想性が認められていたことも間違いないでしょう。

 

「生のパリ」と「死のパリ」

 

――と語っておいてなんですが、著者個人の率直な感想を言えば、「いや、やっぱりかなり悪趣味ではある(笑)」という印象も消えません。

 

頭蓋骨を模様のように並べた場所は今は観光名所となり、皆が写真を撮りながら歩いていく。その光景には、どこか倒錯的なものを感じます。

 

そして、それは自分自身にも。

 

しかし、おそらく重要なのは、その居心地の悪さ、不快さそのものです。

 

きらびやかなシャンゼリゼ通りを歩く人々も、ルーブル美術館の傑作に見惚れる人々も、足元には600万人分の死が広がっている。

 

地上の美しく洗練された「生のパリ」と背中合わせの地下の「死のパリ」。

 

その矛盾を隠さずむき出しにしているからこそ、カタコンブは今なお、「あこがれのパリ旅行」の行き先の一つとして、強烈な印象を残し続けているのでしょう。