チェコ(ボヘミア)の歴史を調べていると、しばしば目にする不思議な言葉があります。
それは「投擲(とうてき)事件」、英語では Defenestration of Prague。
「窓から投げ落とす」という直訳どおりの出来事ですが、驚くべきことに、プラハではこの衝撃的な事件が二度も起こり、しかもいずれも歴史の転換点に深く関わっているのです。
なぜプラハでは、こんな劇的な行動が繰り返されたのでしょうか。
第一幕:1419年「第一回プラハ窓外投擲事件」
事件の背景と新市庁舎の役割
まずは1419年に起きた「第一回プラハ窓外投擲事件」の舞台――プラハ新市庁舎(Novoměstská radnice)。
14世紀後半に建てられた新市庁舎は、新市地区(ノヴェー・ムニェスト)の行政と象徴の中心でした。
当時のボヘミアでは、カトリックと改革派フス派の間で宗教的対立が激化しており、その緊張がついに爆発したのが1419年7月30日。
この日、修道士ヤン・ジェリフスキー率いるフス派支持者たちが庁舎に押しかけ、市に捕らえられていた仲間の釈放を要求します。
交渉が決裂すると、激昂した群衆は市参事らを庁舎の高窓から突き落とすという行動に出ました。
通りで待ち構えていた民衆によって7名の参事が命を落とし、この事件はのちに「第一回プラハ窓外投擲事件」と呼ばれるようになります。
この一件は単なる暴動ではなく、のちにボヘミア全土を巻き込むフス戦争(Hussite Wars)の引き金となりました。
中世・近世ヨーロッパにおいて、高い位置から地べたに、または立派な建物の中から外へ投げ落とす行為は、権力者や社会秩序への公然たる拒絶や抗議の象徴でした。
つまり、窓から人を放り出すという荒々しく痛ましい行為が、ヨーロッパ宗教改革の幕開けを象徴する「政治的メッセージ」でもあったのです。
現地を訪ねて:新市庁舎のいま
新市庁舎は、カレル広場(Charles Square)の緑豊かな公園の中に静かに建っています。
内部は一般公開されており、展示室や展望塔、イベントホールとして利用されています。
221段の階段を上ると、プラハ中心部の屋根の海と、遠くビシェフラドの丘までを一望できます。
館内には、中世の重厚さを感じるヴォールト天井や、ルネサンス期に増築された南翼など、時代の変遷を物語る意匠が随所に残されています。
事件が起きた“その窓”がどこかは明示されていませんが、塔の途中にある小部屋や高窓をのぞくと、当時の緊迫した空気を想像せずにはいられません。
第二幕:1618年「第二回プラハ窓外投擲事件」
第二幕の舞台となったのが、街の象徴であるプラハ城(Pražský hrad)。
1618年、ここで起きた「第二回プラハ窓外投擲事件」は、ヨーロッパ全土を戦火に巻き込む三十年戦争の発端となりました。
窓からの「裁き」
事件の根底には、ボヘミア(現在のチェコ西部)で続くカトリックとプロテスタントの対立がありました。
神聖ローマ帝国の支配下にあった当時のボヘミアでは、16世紀以降、信仰の自由をめぐる緊張が続いていました。
1618年、ハプスブルク家のフェルディナント2世(当時はまだ皇太子)が信仰の自由を制限しようとしたことに対し、ボヘミアのプロテスタント貴族たちは激しく反発。
そして、彼らは抗議のためにプラハ城内の旧王宮(Vladislav Hall)に乗り込みます。
議論は荒れに荒れ、やがて言葉では収まらない事態へ。
1618年5月23日、貴族たちは皇帝側の役人二名――ヤロスラフ・マルティニツとヴィルヘルム・スラヴァタ――を、憤怒のあまり高さおよそ20メートルの窓から突き落とします。
奇跡的に二人は命を落としませんでしたが(下にあった糞尿の堆積物がクッションになったとも言われます)。
この命拾いもまた「神の加護だ」「悪魔の仕業だ」と両陣営が互いに主張し合い、事件は宗教的象徴として一気に広まりました。
この出来事の衝撃は深刻で、危機感を募らせた帝国側は武力で反乱を鎮圧しようとし、やがてこの小さな“窓からの出来事”が、ヨーロッパ全土を三十年にわたる大戦へと導くきっかけとなったのです。
現地を訪ねて:プラハ城の現場
聖ヴィート大聖堂や旧王宮、黄金の小道など見どころが尽きないプラハ城。
事件現場となった旧王宮の南棟には、今も「Defenestration Window(投擲の窓)」と呼ばれる場所が残っています。
観光ルートの途中から見上げるその窓は、何気ない装飾窓のように見えますが、歴史を知ってから見ると、ヨーロッパ近代史を動かした重みを感じずにはいられません。
窓が語るヨーロッパの運命
第一回事件(1419年)はフス戦争、第二回事件(1618年)は三十年戦争。
200年離れたこの二つの出来事は、どちらもヨーロッパを揺るがした大戦の導火線でした。
とりわけ二回目の事件は、すでに語り継がれていたであろう前回の事件になぞらえ、引きつけられるようにして行われたのかもしれません。
プラハの街には“窓からの投擲”という暴力的な行動が、時代への抗議と運命の象徴として刻まれているのです。
「なぜ、窓から相手を投げ落とすという極端な選択をしたのか」――
静かなプラハ城の石壁を見上げながら、そんな問いが、歴史を旅する者の胸に静かに残ります。